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高速値下げ実験−信州への旅−

 今日から、自公の選挙対策で2年限定で高速料金が1000円に値下げされました。
 元々民主党の出した、高速無料、利権構造破壊に対して出してきた場当たり的な制作で色々な問題が指摘されています。
 しかし、頭でっかちに批判しているのでは、ただの民主党信者といわれても仕方がないものがあります。
 そこで早速、実際に体験をして参りました!


 午前4時に家を出て、まずは首都高速を乗り継ぎ、高井戸−八王子の料金均一区間を抜けて、中央高速に入ります。ここまでは今まで通りの課金で、すでに1000円近く使ってます(^^;
 で、道路は思ったほど混んではおらず、渋滞も無しにあっという間に諏訪湖サービスエリア着。

 SAのお姉さんに聞きましたが、どうも全く1000円固定の効果が出ていないのでは、とのこと。
 昨日土曜日もゴールデンウィークに準ずる体制で迎えたということでしたが、結果は全く肩すかしで、大量のお弁当を期限切れにしてしまって困ったという話でした。
 確かに、都内から出る事を考えると、先ほどの今まで通りの固定料金区間に加えてガソリン代もかかりますので、そんなに安くなってないんですよねえ。
 ここで、岡谷インターで下りることにしました。
 これで1000円。ここまでで、道路料金は計2000円です。
 非ETCではここまでで5400円でしたから、3000円くらい安い計算。ただし、ETCの日曜早朝割引は元から40%引でしたので大雑把に計算しても、今回の値下げ前で3240円。1240円しか安くなっていない計算です。
 ここまででガソリン代も3000円くらいかかっていますので、これは、そんなに交通量が増えないのも当たり前ですね(^^;


 気を取り直して、諏訪の町へ。

 ここは、大和民族の渡来以前から続く土着信州人の古い町で、私の家系のルーツが1000年以上前に住んでいたと言い伝えられている町でもあります。

 そして、諏訪大社、下社秋宮へ到着。
 道路も駐車場もがら空きです。
 おかげで神社の無料駐車場に駐められ、駐車料金も払わずに済みましたが、うーん。


 そして、いよいよ諏訪大社の中へ。

 これは下社秋宮舞殿。
 諏訪大社は建御名方命・八坂刀売命を祭る神社で、この二神は我が家をはじめ、地元の家々の祖とも言い伝えられています。
 神社は、上社下社、それぞれ2つの宮を持ち、合計4つの神社施設で構成されています。
 ここ、下社秋宮では、大和民族の神社様式では完全に飾りとなる舞殿にも鏡のご神体が飾ってあり、白蛇に由来する巨大なしめ縄が飾られていることでも有名です。

 そしてこちらが拝殿。
 舞殿に比べると小型ですが、充分に巨大です。
 巫女さんが小さく見えますね。


 そして、続いて少し離れた場所にある、諏訪大社下社春宮。

 実はこの春宮は工事中でして(^^;

 残念ながら、仮設テントでのお参りとなりました。


 その後、もう一度秋宮に戻り、なぜか神社境内にある観光ホテルの前に。

 何でわざわざこんなホテルに行くのかというと……

 実は、このホテルは、霞が城こと、手塚城跡地に建てられているのです。
 うちの先祖である手塚太郎光盛が居たと我が家では言い伝えられている城なんです。
 手塚太郎光盛は、能「実盛」での早とちりの武功や、平家物語での木曽義仲公を守っての討ち死に記録に残っています。
 とはいえ、もちろん、現在ではこの城や諏訪大社に対して、我が家にはなーんの権利があるわけでもありません(笑)
 単なる「うちの先祖と伝えられる人が、かつて住んでた場所」に過ぎません(笑)

 で、これが手塚太郎光盛。

 どうでしょう?
 1000年も前の人ですが、私に面影があるでしょうか?
 そしてこれが、ホテルに飾られていた手塚太郎光盛の鎧?

 1000年前のものにしては随分近代風で、また保存が良すぎるので、後世に作ったものかも知れませんね。

 手塚城跡地のホテルからの光景です。
 諏訪の地が一望できる、まさに領主の館ですね。


 とはいえ、実は、この霞が城、諏訪大社の規模に比べて随分と小さい規模です。
 普通は、これだけ大きな神社を付属施設に持つ城であれば相当な規模なはずなのですが、なぜか、まるで城の方が神社の付属物のような大きさなのです。
 これには理由があります。
 光盛は、諏訪神党といわれる神社の守手として城を持っていたのであり、あくまでも本家は諏訪神社だったとされているのです。
 そのため、普通とは逆に、巨大な神社にこぢんまりとした居城というスタイルになっているわけですね。
 その後、源平で木曽義仲公に付いた光盛は、義仲公の従兄弟である頼朝義経兄弟の裏切りによって義仲公共々戦死、その一族郎党も諏訪から追い払われ、歴史の中に消えたとされています。


 ちなみに今回は、下社だけで、上社には行きませんでした。
 実は上社の方が南宮とも呼ばれる本来の信仰の中心地なのですが、上社前宮は御神体を失ってから久しいとされ、形だけが残っている状態なのです。
 そのため、今回のように駆け足の場合には、下社だけを回ることも多いのです。
 あ、そうそう。
 全然関係ない話ですが、ちなみに、我が家の一族が未だに住む、源氏隠れ里でもある木曽日義の南宮神社には、なぜか「戦で落ちてきたときに盗んできた」とされる御神体が飾られておりまして……(^^;




 そんなこんなで、手早くお土産を買って、今度はお昼の道をひた走って都内に帰ってきました。
 こちらもやはり、土日割引料金1000円+都内固定料金1000円の、2000円でした。
 ちなみにこちらも渋滞は全くなく、途中のサービスエリアも普段よりも少し混んでいる程度とのこと。
 唯一の渋滞が、都内首都高速での事故渋滞という状況でした。


 結果を見ると、トータルで、約2000円×往復+ガソリン代約6000円=約10000円でした。
 これに対して、従来の料金では、約5400円×往復×日曜早朝4割引(0.6倍)+ガソリン代約6000円=約12500円
 従来の料金に比べ、今日一日で2500円ほど得だったことになります。


 やはり、ETC限定の1000円固定では、まだまだ料金が高すぎて、十分な効果が出ていないと感じます。
 そもそもETCを家庭用自動車に積んでいる人は、まだまだ多数派ではありません。
 そのコストを考えると、今回の1000円固定は、さして魅力的に見えないと言うことなのではないでしょうか?
 やはり、高速料金はあくまでも無料にして、グローバルスタンダードの「フリーウェイは無料」という改革を行うことこそが、経済活性化に繋がるのではないでしょうか。
2009-03-30_01:17-teduka::General

Comments


はじめてコメントさせていただきます。

驚きました。
小生も光盛子孫のはしくれでございます。

小生所縁の手塚家は山梨県北杜市にあり、その旨代々言い伝えられてきました。

手塚社長どのは、何か伝承などお持ちでしょうか?

この件について、情報交換させていただければ幸いです。

突然の書き込み失礼いたしました。

>左京亮さん
 コメントありがとうございました。
 そうなると、遠いご親戚でしょうね。
 うちの手塚家は長野県の木曽郡旧日義村(現、木曽町日義)で、木曽義仲公が匿われ育った場所です。
 ですから、村は木曽公の縁者ばかりでして、こうした言い伝えや史跡の数々があります。
 木曽軍敗戦で諏訪を追われた際に、我が家も木曽公ゆかりのこの地に匿われたと言われています。
 また、明治以前からの墓にも手塚の名があり、明らかに手塚の名を継いでいたことが見て取れます。
 徳音寺という木曽公ゆかりの寺や、義仲館というミニ博物館などもありますので、もしご興味があればお出かけされてみても面白いかも知れません。
 木曽川を挟み、東岸が源平以前からの日義の人々や町、出陣を行った南宮神社。西岸が我が家などの源平の戦乱で匿われた人々や木曽公菩提の徳音寺など、源平直後に関係する土地のようです。
 東岸側は、江戸時代に関所もあったため、そこで町人の町としても栄えた形跡があり、歴史マニアにはたまらないところです。
2009-04-06_13:04

_ 左京亮

>手塚社長どの

そーですか。日義村にゆかりがあるんですね。

小生ゆかりの手塚家は、武田の信濃侵攻時(天正年間)に武田の家臣となって、山梨に住み着いたようです。 その人の名は手塚左京亮光経と言って、誠忠旧家録という古文書や手塚家石祠に名前が残されています。古代氏族系譜集成に記されている光盛17世の光経は、左京亮のことではないかと考えています。

光盛の史跡を追って、諏訪や上田などを何回かめぐっております。 日義村はまだ訪れていませんが、興味深い場所でいつか必ず行きたいと思っております。

あ、それから本文にあります騎馬武者は光盛の兄で諏訪下社大祝であった諏訪盛澄の像です。この人も諏訪大名絵詞や吾妻鏡などに名を残されていますね。
また書き込みさせていただきます。

>左京亮さん
 そうなると、おそらく左京亮さんの御家系は、天正の武田侵攻時に木曽を出られて家系が別れたんでしょうね。
 ご存じの通り私たち手塚の一族は、祭儀の一族と武家の一族の両面性がありますので、日義で木曽義仲公の菩提を祀り続ける家系と山梨で武田に直接仕える家系に分けたのは極めて自然に思えます。
 それにしても、あの像は諏訪盛澄でしたか!
 確かに写真を拡大してみると、諏訪盛澄の名がありますね(^^; 
2009-04-08_14:41

_ 左京亮

>手塚社長どの
武田の信濃侵攻時に、信濃のどこから山梨にやってきたのかは定かではありません。

先の「古代氏族系譜集成」によれば、「夏目に住す」とありますし、マキウチの書いたものには「伊那から移ってきた」とあります。

このあたりも「本当はどうなの」と小生にとっては興味深いところなんですが、調べる手立てが見つかりません。ぼちぼちと気長にやっていくしかありません。

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